日を空けるべきではない、続けることが大切である。

大切なことを続けられない、私はまず、下らないことを毎日続けてみよう、もう一日空いただろうが、もう空けない、文章を書くことは好きだ、が、上手ではない。

上手に書こうとするとストレスだ、続かない、だから、とにかく書く適当でも、積みあがっていくものはあるはずだ、少しずつでも、人生に間に合うかはわからないが、それでもやらないより良いはず、何か私になるはずと考える。今日

カップ麺

カップ麺をおいしく食べる方法、それは箸に加えてレンゲを用意することである。

洗い物がめんどくさくともレンゲを。

猫舌の私は、カップ麺は、麺を食べ終わってからスープを飲みがちだが、カップ麺のクオリティが非常に上がってきた昨今、未だに店で食らうラーメンに比べて、カップ麺を食べた時の充実感がない、寂しく感じるのは、麺と同時にスープを口に含む、機会が少ないからであると今日、私は悟るに至ったかもしれない。

麺だけでは淡白だ、いや、昔に比べ麺も格段にうまくなっているが、ラーメンの旨さは、麺とスープが渾然一体となってこその物だ、と私は確信した。それだけ。

努力する

生まれながらの悪人、クズはいるのだろうか。いるだろうな。
両親は良い人たちだった、もちろん人並みに人並みの欠点はあったが、私が世に誇れる人たちだったが、私はこうなっている。
それには満たされない承認欲求もあったろうが、その程度のことはありふれているだろうとも感じる。世に。
であるなら、生まれた後の環境にも左右されるところはあれど、やはり生まれ持っての資質は大きいように感じる。
生まれてくる時点で、競争を勝ち抜いているはずなのに、どうしようもなく弱い人がいる。のは私がそうであるように感じるが、だから、

人が変わることは難しい、が私はキャラクターメイキングできるゲームが好きなような気がしていたがやはりめんどくさかった。
が、能力の割り振りをしていくことを楽しむように、つまりキャラビルドか、能力を上げていくことを楽しむこと。に楽しみを感じること。
それができるようになれば。筋力トレーニングはできる。目に見えるから、つまり、目に見えない知識を私は積み上げることが信じられない傾向にある。
目に見えないものを信じられない、そうだった、知識だけではなく技術も信じ切れていないところがある。理性では知識も技術も存在を認めているのに、
私の本能が目に見えないものを信じていない。それが積み上げられることを勘違いかのように思っている、それが問題である、
楽しめるように自分をだますことができない、人を騙すことはいくらでもできるし、してきたが、悪意があったわけではなく、処世術として、苦しく思いながらも、
自分をだますことができない、自我が強固すぎる、は良いことではない、騙さなければならない、いや、それは嘘じゃあないと思っているが、それでも自分の本能を自分にとっての
本当のこととするなら、それはつまり、世の本当に合わせるのなら、本当の中の本当に合わせるのなら、やはりそれは自分を騙すことであるから、
この先の人生を開くために努力するために自分をだますための努力をしてみようと思う。頑張れ、

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さて、思考が昔の思い出したくないことや、今のふがいない自分に向かうたびに、「死にたい」という言葉をはさんでリセットしようとする傾向にあるようだ。私は。
だが「死にたい」と言うと体が拗ねてしまって本当に死んでしまうほうに向かうのではないかと考えると怖くなり、直ぐ、「死にたくない」と言い直す。
実際死のうとしても、残った借金が、とか、土地の持ち主に迷惑が、とか、考えてしまうあたり、結局そこまで苦しんでないし、度胸もないのだろうなと思う。
本当に口だけの男だな、と思うところである。

ところで生きることのほうが苦しいのだから、結局生きていることを選ぶもののほうが度胸がある、強い人間なのだ。という事をいう人もいる。
というか、そういった意見のほうが強いように感じる。多数派で、また耳触りが良い。
どうなのだろうか、それはいわゆる正しい意見であるようには思うが、少し違和感も覚える。
その意見に私が感じる、何とも言い難い、欺瞞のようなものは何だろう。
いわゆる神様というものの存在を完全に取っ払って考えた時、自分から死を選ぶことが弱いことで悪いことであるとする理由は。
悲しむ周囲の人々、生きたいのに生きられない人の気持ち、生物としての矛盾、血を繋いできたことを台無しにする。それくらいだろうか。
知ったことではないのだろうと思う。それはみんな勝手にやってきたことだろう、その人の自死は生きられない誰かとはまるで関係がない、
逆恨みであると思う。

それはそれとして、私は死にたくないのだと思う、永遠に生きていたいとも思うと同時に楽になりたいとも思うし、ちやほやされたいとも思う。
死ぬ勇気、それを勇気と言っていいのかは意見が分かれるところだと思うが、私は言ってもよいと思うが、私にそれはない。
できない。それすら情けないと感じてまた、落ち込んでしまう。元々こういう人間だったろうか、どうだったか。


努力、したことがあっただろうか、無くはない、が、例えば学生の部活、時間が決められた中で精いっぱい頑張るのは努力なのか、
私はそれを努力と認めて欲しかったが、そうはならなかった、恨み言か、努力だとは思えなくなった、今では。
ある程度強いられた状況における努力は努力ではない、同じ時間に頑張っている他人が存在するのなら努力ではない、恨み言か、である。
愛しているはずだが、恨んでいる、本当は嫌いなのかもしれないとすら思うことがある。殺してやりたい。そんなことはない。
努力していない言い訳だといわれるだろう、誰にも、すべからく。


こんなにもたくさんのことを自分以外の人間は考えているはずがないと思う。そんなことはないといわれるだろうが、
私はそう考えている、自分の考えが本当は一番尊いものだと思っている。他人を馬鹿だと思っているから言葉が多くなるそうだ。
それでバカだと思われる、そう思われることが一番怖くて悲しい。


そもそも生きることに向いてないように思える、頑張れなくはない、が努力できない、傷つくことが多すぎる。誰と接していたって傷つくのだ、そして内心だけで八つ当たりして
それが表に出ていないかを大げさなほどに恐怖する、どうしようもない。
だがそれは絶対に鬱ではない、病気でもない、鬱ならよかった、薬で好転するようなものなら良かったが、、そうではない、正常な私がこうであるようだった。
だから生きていたくないくせに死にたくないし、そうやって時を浪費していくことをどうしようもなくストレスに感じているのに努力できない、何でもしてみればよいのに、
それをしない、言い訳をして、いやそれすらしてない、ごまかししかない、何でもしてみればよいのに、どうも人の気持ちを気にしすぎる。それらを全部何の気なしに裏切れたら
すごく自由だろう。それを想像することしかできない。
死ね