愛し愛されることに対して、とても憧れがある。ほぼほぼそんな経験がない、というのも関係しているかもしれないが、私の中にはほかの人より大量に、行き場のない愛が溢れかえっているように思えてならない。

しかし、結局私の人生は孤独で終わるだろうな、とも思っている。

全てのこだわりを捨て、様々なことを我慢できるのなら、きっと、一人ぼっちで死んでいくことはないかもしれない、が、いつからか、いや、大体原因は分かっているのだが、私は人を信用することができなくなってしまった、心から、いつもすべてを疑っている、自分をさらけ出すことができない、周りに誰かがいることを苦痛に感じる、人に見られることを、人の目を意識しすぎることを、苦しく。

だからたぶん結局愛せないように思う、誰も、本当の意味では。

もし、今の家族、母なら、いや、それでも結局だめだろう、私が自分の死期をもし、悟ったとき、まるで猫のように、誰にも見られぬ、悟られぬところで死んでいくことを選ぶのではないだろうか、寂しく、寂しく、誰かに縋り付きたく、泣き言を言いたいのに、自分の泣き言を、人に分かるように、理解させることに、誤解のない形で、伝えきらねばならないという、強迫観念に、煩わしく、結局、仕事なのだろうと、憐れむようで、同情するようで、その内面には少しの心の動きもないのだろうと、ああ、だからか、それは私だ。真実のところ自分の苦痛にしか何の心の動きもないのは、人の苦しみに、悲しむような顔をして、それを、周りに見せているだけなのは、だから、自分がそうだから、そうなってしまったから、人も信用できないのだ。

何も感じない、感情がないとのたまう人間よりなお悪い。

自分のことにしか、究極、心が動かない人間、が、私だ。

だから、他人のうちに、心が感情が、あることを、真心で、信じていない、見えないものを、すべて、プログラムか何かのように、人の中に歯車でも詰まっているような、きっと中身を開いてみても、信用できない、それは、自分が割り開いた瞬間に、金属から

肉の塊にすり替わったのだと、理屈ではなく、私の、もはや本能にまでなり替わってしまった、疑いが、自分以外全てを、人を人とも思わぬ、