新規 テキスト ドキュメント.txt

さて、思考が昔の思い出したくないことや、今のふがいない自分に向かうたびに、「死にたい」という言葉をはさんでリセットしようとする傾向にあるようだ。私は。
だが「死にたい」と言うと体が拗ねてしまって本当に死んでしまうほうに向かうのではないかと考えると怖くなり、直ぐ、「死にたくない」と言い直す。
実際死のうとしても、残った借金が、とか、土地の持ち主に迷惑が、とか、考えてしまうあたり、結局そこまで苦しんでないし、度胸もないのだろうなと思う。
本当に口だけの男だな、と思うところである。

ところで生きることのほうが苦しいのだから、結局生きていることを選ぶもののほうが度胸がある、強い人間なのだ。という事をいう人もいる。
というか、そういった意見のほうが強いように感じる。多数派で、また耳触りが良い。
どうなのだろうか、それはいわゆる正しい意見であるようには思うが、少し違和感も覚える。
その意見に私が感じる、何とも言い難い、欺瞞のようなものは何だろう。
いわゆる神様というものの存在を完全に取っ払って考えた時、自分から死を選ぶことが弱いことで悪いことであるとする理由は。
悲しむ周囲の人々、生きたいのに生きられない人の気持ち、生物としての矛盾、血を繋いできたことを台無しにする。それくらいだろうか。
知ったことではないのだろうと思う。それはみんな勝手にやってきたことだろう、その人の自死は生きられない誰かとはまるで関係がない、
逆恨みであると思う。

それはそれとして、私は死にたくないのだと思う、永遠に生きていたいとも思うと同時に楽になりたいとも思うし、ちやほやされたいとも思う。
死ぬ勇気、それを勇気と言っていいのかは意見が分かれるところだと思うが、私は言ってもよいと思うが、私にそれはない。
できない。それすら情けないと感じてまた、落ち込んでしまう。元々こういう人間だったろうか、どうだったか。


努力、したことがあっただろうか、無くはない、が、例えば学生の部活、時間が決められた中で精いっぱい頑張るのは努力なのか、
私はそれを努力と認めて欲しかったが、そうはならなかった、恨み言か、努力だとは思えなくなった、今では。
ある程度強いられた状況における努力は努力ではない、同じ時間に頑張っている他人が存在するのなら努力ではない、恨み言か、である。
愛しているはずだが、恨んでいる、本当は嫌いなのかもしれないとすら思うことがある。殺してやりたい。そんなことはない。
努力していない言い訳だといわれるだろう、誰にも、すべからく。


こんなにもたくさんのことを自分以外の人間は考えているはずがないと思う。そんなことはないといわれるだろうが、
私はそう考えている、自分の考えが本当は一番尊いものだと思っている。他人を馬鹿だと思っているから言葉が多くなるそうだ。
それでバカだと思われる、そう思われることが一番怖くて悲しい。


そもそも生きることに向いてないように思える、頑張れなくはない、が努力できない、傷つくことが多すぎる。誰と接していたって傷つくのだ、そして内心だけで八つ当たりして
それが表に出ていないかを大げさなほどに恐怖する、どうしようもない。
だがそれは絶対に鬱ではない、病気でもない、鬱ならよかった、薬で好転するようなものなら良かったが、、そうではない、正常な私がこうであるようだった。
だから生きていたくないくせに死にたくないし、そうやって時を浪費していくことをどうしようもなくストレスに感じているのに努力できない、何でもしてみればよいのに、
それをしない、言い訳をして、いやそれすらしてない、ごまかししかない、何でもしてみればよいのに、どうも人の気持ちを気にしすぎる。それらを全部何の気なしに裏切れたら
すごく自由だろう。それを想像することしかできない。
死ね